今日という日の先に
出かける前に下ごしらえを済ませていた食材を取り出しながら、落ち着かない気持ちで後ろをチラリと振り返る。
ごく一般的な長屋の我が家は襖を開け放つと炊事場から居間が丸見えで、座卓で煉獄さんが寛いでいるのが大変よく見える。
緊張で震える手に気付いて、襖を閉めておくべきだったと自省した。
炎柱邸に差し入れを届けるついでにお茶をご馳走になったことは何度かあるものの、自宅に招いたのも狭い空間に長い時間二人だけになるのもこれが初めてで、言い出したのは自分だと言うのに今更緊張が走る。
『どうせまだ何もしてねェんだろ、お前ら』
不意に宇髄さんに言われた言葉が蘇る。
違う、断じてそんなつもりで誘ったんじゃない。
脳裏に浮かんだ宇髄さんの何か勘ぐるような含み笑いを振り払うようにブンブンと首を振る。
甘露寺さんの意見も参考に、もし夕食の時間にちょうどいい頃合いに行く宛が決まっていなければすぐに好物を出せるようにと予め準備していた食材がうちにあったから誘っただけで、夕食前に帰宅したり他で食べたりするならそれで良かったし、つまり別に何かしようと思って招いたわけではないのであって、いやそれ以前にそもそも女性から自宅に誘うなどふしだらだったかもしれない、けど今更「なまえ?」
「はっ、はい」
食材を抱えながら悶々と考え込んでいたところに名前を呼ばれて、思わず声が上ずる。
振り返ると、煉獄さんが不思議そうな顔でこちらを眺めている。
「何か手伝うことはあるか?」
脳内で言い訳がましい理屈を並べ立てていた私とは対照的に、煉獄さんは他意も下心もない実に誠実な笑顔でそう聞いてくる。
「あ、いえ、煉獄さんは座っててください!」
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます。すぐにできますから」
一人雑念に満ちていた自分を恥じながら、煉獄さんに笑顔を返す。
気遣わしげに少し眉を下げながらも、煉獄さんは「そうか!」と頷くと再び座卓の方へと戻っていった。
余計なことを考えるのはやめよう。
頭を切り替えて調理に取り掛かろうとしたころで、髪紐がないことに気付く。
朝準備していたときにはあったはずだけれど、バタバタしていたからどこかに落としたのだろうか。
そう思って炊事場の床に目を走らせるが見当たらない。
鏡台に余っていたのが入っているかもしれない。
居間の隣にある寝室で鏡台をゴソゴソ漁っていると、煉獄さんが「何か探しているのか?」とこちらを覗き込んでくる。
「髪紐が見当たらなくて⋯」
「髪紐⋯」
「確か予備がこのあたりに⋯」
鏡台の引き出しを漁っていると奥底にしまい込んでいた小さな紙袋が出てくる。
一瞬あったと思ったものの、それを奥にしまい込んだ経緯を思い出してなんとも言えない顔になる。
これを使うわけにはいかない。
小さくため息をついて再び鏡台を漁り始めたときだった。
「これを使うか?」
「え⋯」
横から煉獄さんの手が伸びてきたと思ったら、その逞しい掌には一本の髪紐が乗せられていた。
なんで煉獄さんが?
そう思って煉獄さんの顔を見たら、いつもの煉獄さんと少し違う雰囲気の煉獄さんがいた。
何が違うんだろうと首を捻ったところでようやく気付く。
この髪紐は煉獄さんが今の今まで使っていたものだ。
「代わりの紐が見つかるまで使うといい」
「でも、これ、煉獄さんの」
「なまえの方が必要だろう!」
快活に笑う煉獄さんに半ば無理やり渡される形で、私の掌に髪紐が置かれる。
掌に乗せられたその紐をじっと見つめる。
ダメだ、顔がニヤけてきてしまう。
緩んだ口元を隠すように下を向いて、弾みそうになる声を抑えて「ありがとうございます!」と頭を下げた。