TSUKI
『⋯放して』
腕の中に収めたなまえの身体をきつく抱き締めて離そうとしない杏寿郎に、なまえが諭すように声をかける。
『杏寿郎』
優しく響く名前を呼ぶこの声を、もう聞けなくなるのだと不意に実感が湧いた。
『放したくない』
『放して、杏寿郎。お願いだから』
静かに、けれども強い意志を秘めた声で懇願するなまえの言葉を止めたくて、無意識に手がなまえの頬に触れた。
驚いて言葉に詰まるなまえの頬を指で撫でながら、見開かれた瞳を見つめ返す。
『なまえ』
『杏、寿郎⋯』
涙に濡れたなまえの瞳が月明かりを反射して輝いたのを知覚すると同時に、頬に添えた手に力を入れて引き寄せて、唇を重ねた。
唇に触れる柔らかい感触。
触れたところから広がる熱。
今更こんなことをしたところで、何の意味もないことはわかっている。
自身の状況が変わるわけでもなく、なまえを奪い去って逃げることも、不確かな未来を約束することも、頬に添えられている自身の手に縋るように重ねられたなまえのその手を離すことも、何一つできないくせに。
『っ⋯』
双方の瞳から溢れる涙が混ざり合って頬を滑り落ちていく。
喉奥から漏れる嗚咽を堪えて震える唇が離れて、溢れる涙を拭えず滲んだ瞳で互いを見据える。
言葉にしなくても、それだけでわかった。
涙に濡れた瞳を伏せたまま額を合わせて、なまえの頬を包む杏寿郎の手になまえの手が重なる。
『⋯一緒には、居られない⋯』
わかっている。
あの場所から離れられない自分とあの場所から離れるしかないなまえ。
その道が交わることはもうないのだということは、誰よりも杏寿朗自身が理解していた。
『杏寿郎、泣かないで⋯』
泣きながら微笑んで、なまえの指が杏寿郎の頬を拭う。
泣いてるのはなまえじゃないか。
そう言おうとした唇は震えていて、まともに言葉を発せられない。
言葉にならない想いを伝える術など思い浮かぶはずもなく、ただなまえの身体を抱き寄せる。
杏寿郎の肩越しに夜空を見上げるなまえの瞳に映るのは、悲しいほどに美しい満月。
吸い込まれるように煌々と輝く月を見つめて、ゆっくりと閉じた瞳から涙が溢れる。
どんなに離れてても、抱き締められなくても、この月のようにあなたの心に光を灯せたら。
何があっても変わらずに、愛しいあなたをずっとずっと照らせたら。
どうか、幸せになって。
あなたらしく、笑っていて。
他にはもう、何も望まない。