TSUKI
それは少し大きくなってからも変わらなくて。
『杏寿郎!』
『なまえ』
夕暮れの陽光が差し込む道場の庭で、鍛錬を終え道場から出てきた杏寿郎を迎えたのは幼い頃から見知ったなまえだった。
『お疲れさま!』
なまえから差し出された手拭いと水を受け取ると、汗を拭いながら水を口に含む。
『なにか味がするな!』
『作っておいた果実酢を入れたの。疲れたときにいいって聞いて』
『そうか!ありがとう』
勢いよく湯呑の中身を飲み干す杏寿郎をニコニコと嬉しそうに眺めるなまえ。
『今日の鍛錬はどうだった?』
『まだ父上には勝てない!努力あるのみだ!』
『そっか!頑張ってね』
『ああ!』
そんな他愛もない会話をしながら二人の足は自然と母、瑠火の部屋に向く。
『母上!具合はいかがですか?』
『変わりありませんよ』
瑠火の布団では、鍛錬を終えて疲れ切った千寿郎が倒れ込むようにすでに小さな寝息を立てていた。
千寿郎を起こさないように母の傍に腰をおろし、今日の鍛錬の成果をハキハキと報告する杏寿郎の姿を、なまえは微笑みながら見守る。
背中を見つめられている杏寿郎は知るよしもなかったけれど、杏寿郎を優しい瞳で見つめるなまえを、瑠火もまた柔らかく微笑んで見守っていた。
『暗くなってきたな!帰るか?』
『うん』
日が落ちてきた庭に目をやって、杏寿郎は立ち上がると『なまえを送ってきます!』と瑠火に声をかけた。
『はい、頼みます』
『父上にも声をかけてきます!』
そう言って父にも一言かけようと瑠火の部屋を後にする杏寿郎に続こうと立ち上がったなまえの手を、瑠火の細い腕がそっと掴んだ。
『なまえさん』
『はい』
腕に感じた引力に従って再び布団の傍に座り込んだなまえの顔をじっと覗き込んで、瑠火は静かに言葉を発した。
『杏寿郎を、頼みます』
強く優しい意思を秘めた瑠火の瞳には、切実な願いが宿っていて。
『⋯はい』
『ありがとう』
その瞳を真っ直ぐに見つめ返して力強く返した言葉に、瑠火は安堵したように眉を下げて笑みを落とした。
『なまえちゃん、今日もありがとう!』
『また来ます』
『ああ、よろしく頼む!』
槇寿郎と玄関先で別れ際の挨拶を交わしていると、その声を聞きつけたのか疲労で夢うつつだった千寿郎が起き上がって、『帰っちゃうのやだー!』と駆け寄ってきた。
小さな衝撃を優しく抱きとめて、なまえは『また明日ね』と杏寿郎とよく似た千寿郎のフワフワとした癖毛を撫でる。
素直に彼女に感情をぶつける弟を少し羨ましく思いながらも、杏寿郎はその相好を崩すことなく弟が渋々離れるのを見守った。
『では、送ってまいります!』
弟を父に任せると、杏寿郎はなまえを連れてすでに日が落ちて薄暗い路地へ出る。
『わー、真っ暗』
『こわいか?』
『こわくないよ!だってほら』
そう言ってなまえが指さした先には、夜空にぽっかりと浮かぶ丸い月。
『杏寿郎知ってる?』
『なにをだ?』
『月は願いを叶えてくれるんだって』
『そうなのか!』
空高く、決して届かない月に向かって手を伸ばすなまえを、杏寿郎は少し目を細めて見つめる。
『杏寿郎、信じてないでしょ?でも、私は信じるよ』
『なぜだ?』
『だって、その方がツキが巡ってきそうだもの』
いたずらっぽく笑うなまえに、杏寿郎は『そうか!洒落か!』と納得したように頷きながらも
『なまえが信じるなら、俺も信じよう』
そう答えると、なまえに倣うように、漆黒に浮かぶ黄金色に光る月を仰ぎ見た。
あの日二人で並んで見上げた月は、今も変わらずに頭上で輝いている。
あの時は、己の努力で実を結ぶものではない類の願いをどう思い浮かべたらいいかわからなくて、結局何も願えなかった。
だからだろうか、それから程なくして母が逝去したのは。