yumekago

TSUKI

『⋯杏寿郎⋯』

家族の精神的な支柱となっていた瑠火を喪った煉獄家は、以前のような温かくて朗らかな雰囲気をなくしてしまっていて。
葬儀を終えてかつて母が伏せていた部屋の縁側で微動だにせず庭を眺めている杏寿郎の後ろ姿に、なまえはそっと声をかけた。

なまえか!来てくれてありがとう』

そう言って振り返った杏寿郎の顔はいつもと同じように笑っていて、それがどうしようもなく悲しかった。

『杏寿郎⋯』

思わず声が震えて、滲んだ視界から溢れ落ちた一滴の涙。

『なぜなまえが泣くんだ?』

止めどなく涙を零すなまえを見て困ったように眉を下げて笑う杏寿郎の笑顔に胸を締め付けられて、言葉にならない想いを飲み込んでなまえは頭を振る。

泣きたいのは杏寿郎のはずなのに。

なまえは溢れる涙を拭うこともせず、杏寿郎に駆け寄るとその体を抱きしめた。
鍛錬のせいだろうか、同じ年の子どもよりも筋肉質な身体。

なまえ?』
『⋯⋯っ』

少し戸惑ったように言葉を発した杏寿郎を遮るように、なまえは杏寿郎を閉じ込めた腕に力を込める。

『っ、誰も、見てないから⋯』

泣いていいんだよ。

言葉にならない声は静寂に消えていく。

瑠火を喪って自失している槇寿郎と亡き母を慕って泣き続ける千寿郎を支えるために、泣くことも立ち止まることもできない杏寿郎を抱きしめて。

杏寿郎は最初こそ驚いたように目を見開いていたけれど、頭上から降りかかるなまえの涙に誘われるように、その瞳から一粒の滴が零れた。

母を喪った父はすっかり人が変わってしまって。

『たいした才能もないのだから無駄な努力をするな!』

そう言って稽古をつけてほしいと懇願する杏寿郎を突き放した。
稽古をつけることはもちろん、杏寿郎の顔を見ることも、その名前を呼ぶことも、すべてから目を逸らして酒に溺れた。

それでも。

『杏寿郎』

自分を呼ぶ優しい声に振り返れば。

『今日もお疲れさま』

昔から変わらない、鍛錬を終えた杏寿郎に太陽の香りをまとった手拭いとよく冷えた飲み物を差し出すなまえ

彼女だけは変わらない。
昔も今も、同じように杏寿郎たちを気にかけて世話を焼いてくれる。

『杏寿郎すごいね、また階級上がったのね』
『ああ!俺は柱になるぞ』
『うん、杏寿郎ならきっとなれるよ』

父に認められない努力も、否定された自分の可能性も、なまえだけはずっと信じてくれた。
母を思い出させる、温かく静かな眼差しで。

その存在に、どれだけ救われただろう。
果てしないその優しさに、折れそうになる心を何度立て直してもらっただろう。

幼い頃から抱いていた淡い恋心が、身体の成長とともに濃く深くなっていることには気付いていた。

ただ、見ないふりをしていたんだ。
柱になるという信念だけに目を向けて、他の一切からは目を背けていた。

酒に逃げた父と同じように、俺はなまえへの想いから逃げた。