TSUKI
『きょうじゅろー!』
父上の厳しい鍛錬を終えて庭で顔を洗っていると、自分を呼ぶ幼い声と小さな足音が聞こえてきて濡れたままの顔を上げた。
『なまえ』
『たんれん、おわったの?』
物心つく頃から見知ったなまえの顔。
鍛錬が終わる頃にいつも自宅へやってきては母上に色々なものを届けてくれる。
『おわった!』
『じゃあ、あそぼ!』
そう言って柔らかい小さな掌で杏寿郎の手を取ると、彼の返事を待たずになまえは杏寿郎を引っ張って表へ飛び出した。
背の高い草が生い茂った河原まで連れてこられたと思ったら、なまえは杏寿郎を待たずに草をかき分けて進んでいく。
『きょうじゅろー、こっち!』
『みえない!』
『ここよ、ここ!』
声だけを頼りになまえの姿を探していると、不意に視界が開けた。
『わ⋯!』
眼前に現れた光景に、杏寿郎は思わず息を呑む。
『ね、すごいでしょ?』
楽しそうにクルクルとなまえが走っているのは、そこだけポッカリと穴が空いたように草がなくなり、代わりに一面の花が咲いている空間だった。
周りの背の高い雑草に隠されるように、ひっそりと静かに育ってきたのだろうか。
規則性もない色とりどりの花は野趣溢れていて、自然の美しさと強さがそこにあった。
『すごいな!きれいだ』
『えへへ』
杏寿郎の言葉に、なまえは嬉しそうにはにかむ。
『るかさんにもってかえろう!』
『母上に?』
『うん!』
満面の笑みでそう言うと、なまえは杏寿郎の手を引っ張ってその場にしゃがみ込む。
そして小さな手を合わせるとペコリを頭を下げた。
『すこしわけてください』
そう言って紅葉のような手を伸ばして堂々と咲く赤い花をそっと摘んだ。
杏寿郎もそれに倣うようにして、手を合わせてお辞儀をすると、黄色い花に手を伸ばした。
それぞれ2本ずつ花を摘むと、再び高い草をかき分けて歩道へ走り出て、家を目指す。
『母上!』
『るかさん!』
我先にと杏寿郎の母、瑠火の部屋へ庭から飛び込む。
『二人とも、どうしました?』
『おはなをつんできました!』
そう言って摘んできた花を呆気にとられている瑠火の眼前に差し出した。
鼻先に突き出された、かすかに野の香りがする花に瑠火の顔がほころぶ。
『私のために摘んできてくれたのですか?』
『はい!なまえがおしえてくれました!』
『おはながたくさんさいている、ひみつのばしょです』
『そうでしたか⋯。二人の心遣い嬉しく思います』
瑠火は白く細い腕を伸ばして、杏寿郎となまえの小さくふくよかな手からそっと花を受け取ると、その花弁に顔を寄せた。
『花に触れるのは久方ぶりです』
香りを取り入れるかのように鼻を埋めて深く息を吸う。
嬉しそうな瑠火の様子に、杏寿郎となまえは顔を見合わせて笑い合った。
娘のいない瑠火にとって、実の娘のように可愛がっていたなまえと過ごす時間は本当に楽しそうで微笑ましくて。
『まだ少し大きいかしら?』
自分の少女時代の着物を引っ張り出してはなまえに着せて、髪を結い、鏡の前で着飾った自分を嬉しそうに眺めるなまえの姿に目を細めて。
鍛錬で傍にいられない杏寿郎や千寿郎に代わって、病床に臥せった瑠火を見舞って一人静かに枕元で時を過ごすなまえの少女らしい無垢な思い遣りに瞳を潤ませて。
そんな風にいつだって、気がつけばずっと昔から煉獄家になまえがいるのは当たり前の日常だった。