TSUKI
『杏寿郎⋯』
『なまえ、どうした?暗いな!』
ある日、いつものように煉獄家へ訪れたなまえは、ついぞ見たことのないような暗い表情で杏寿郎の名を呼んだ。
『結婚が決まったの』
唐突になまえの口から発せられたその言葉に、杏寿郎の顔から刹那、笑みが消えた。
しかしその不意に漏れた本心は、鍛えられた剣士でもなければ気付かないほどの僅かな瞬間で。
『そうか、良かったな!おめでとう!』
いつもと変わらない、快活な笑顔で事もなげに祝言葉を述べる杏寿郎になまえは悲しそうに微笑む。
『杏寿郎⋯』
『なんだ?』
私、あなたの傍に居たかった。
そんな願いを口にすることすらできなくて。
鬼殺の名家として強い剣士の血を残していかなければいけない宿命を背負った家長になるであろうあなたに、剣士でもなければ藤の家紋を掲げている家の出でもない私が、鬼殺隊員を支える役目を果たせるというのだろうか。
私にできることは、せいぜい身の回りの世話をすることくらい。
そんなものは、お手伝いさんを雇えば事足りる。
『なまえ』
不意に名前を呼ばれて顔を上げれば、優しく微笑む杏寿郎がいる。
いつの間にこんなに背が伸びたのだろう。
精悍な顔立ちに、かつての幼さは残っていない。
『幸せになるんだぞ』
そう言って頭に伸びてきた肉刺だらけの手は、世間一般の成人男性よりもはるかに逞しかった。
この手はいつか、私ではない誰かの手を取るのだろう。
愛しい誰かとの間にできる子どもを抱くのだろう。
見上げた先に杏寿郎の真っ直ぐな瞳があった。
母を亡くしたときでさえ、父に否定されたときでさえ、いつも曇ることなく真っ直ぐに前を向いていたこの瞳は、いつか私ではない誰かを慈愛を込めて見つめるのだろう。
この瞳の先に、私はもういない。
今までずっと隣にあった杏寿郎の手が、瞳が、その姿が、自分の世界から消えてしまう未来を実感してしまって、無意識に涙が零れた。
『なまえ?』
溢れ落ちた涙に杏寿郎は驚いたように目を見開いて、なまえの顔を覗き込む。
『どうした?』
『杏寿郎⋯』
『ん?』
『私、』
あなたの隣にいられないのなら。
『⋯もう、いらない⋯』
あなたとの思い出も、心の奥底で育ててきた想いも、何もかも、すべて。
絞り出すようにそう呟いて、なまえは杏寿郎の手を振り払って屋敷から走り去った。
なまえの姿が見えないと連絡が入ったのはその翌日のことだった。