TSUKI
向き合ったまま言葉を探しては飲み込んで、沈黙が流れる。
ザアザアと滝が流れる音がする。
滝壺に落ちた弾みに上がる水しぶきが月明かりで輝くのをじっと見つめながら、杏寿郎がポツリと呟いた。
『⋯幸せになってほしいんだ』
なまえがゆっくりと頭を上げて、泣きそうな顔で微笑んだ。
『幸せって、何?』
『ー⋯』
『名家に嫁いで、跡継ぎを産んで、天寿を全うすること?』
視線を逸らして、なまえは木々が生い茂る暗闇を見据えながら独り言のように言葉を紡いだ。
『私は、幸せになりたいわけじゃない』
『⋯どういう、』
なまえの瞳から、一粒の涙が溢れて頬を伝う。
『結婚も出産も望んでない。何もなくていい。何も残らなくていい』
『それは『私はただ、あなたの近くに居たかった』
遠い昔に、瑠火さんから託された願いを叶えたかった。
誰のためでもなく、自分のために。
『杏寿郎が幸せになるその日まで、傍に居られればそれで良かった』
その隣にいるのが自分じゃなくても構わなかった。
幼い頃から血反吐を吐きながら努力を重ねて、孤独を抱えながら辛酸を嘗めて、重責を背負いながら務めを果たしてきた杏寿郎が、幸せになる姿を見届けることだけが願いだった。
静かに告げられたなまえの想いに、杏寿郎は言葉を失う。
『っ⋯なまえ、俺は『何もしなくていいの。何もしてほしくない』
『⋯だから、このまま行かせて』
戸惑いを浮かべた杏寿郎の顔を覗き込んで、なまえは柔らかく微笑む。
『離れててもずっと、月に願うから』
どんなに欠けても見えなくなっても、いつかまた満ちる月のように。
暗闇にただ一つ輝く月のように。
『杏寿郎の未来が、たくさんの幸せで溢れるように』
慈愛に満ちた笑みを浮かべて、なまえが身体を起こす。
『さようなら、杏寿郎』
『っ』
ほとんど無意識に、身体を翻して歩き出したなまえの手を咄嗟に掴んで、力任せに引き寄せた。