yumekago

互い違いに枷をして

開け放たれた部屋は前回同様綺麗に片付けられていて、簡素な間取りと家具で構成されている部屋は一目見ただけで室内にあるものが把握できる。
何度目を凝らしても、なまえがいないことは明らかだった。

いないのか、と落胆と困惑に襲われたときだった。

「⋯不死川さん?」

不意にすぐ傍で聞き慣れた声がして、真横を向く。

居た。

玄関扉と並列になるように取り付けれている炊事場で、なまえは重箱を包みかけている風呂敷の辺を手に持ったまま、驚いたように目を見張ってこちらを見ていた。

少し乱れた呼吸を整えながらなまえを見返せば、なまえはこちらの様子を窺うように首を傾げる。

「どうしてここへ⋯」
「⋯お前が、来ねェから⋯」
「あっ!もしかして皆さんもうお集まりでしたか?」
「⋯は?」

なまえの質問に間抜けな声を発した俺を気にすることなく、なまえは口を抑えながら困った様子で眉を顰める。

「昨日炭治郎さんからお手紙をもらって⋯。
 今日皆さんがお祝いに来るって知らなかったので、おはぎの材料を少ししか用意してなくて⋯。それで今朝急いで材料を買いに行ったんですけど、作るのに時間がかかってしまって⋯」

なまえが来ないと思ったのは俺の勘違いだったのか。

なまえはただなまえなりに今日の準備を進めていて、本当に偶然に、何の意図も目論見もなく急遽起きた事態に対応するために時間を食っていただけで、大人しく待っていればなまえはいつも通り屋敷へ来たのか。

それなのに俺はバカみてェに一人で焦って、考えるよりも先に身体が動いて、すぐ隣にいたなまえにすら気付かないほどに平常心を失っていたのか。
あぁクソ、まだ軽症だと思っていたのに。

申し訳なさそうな様子で肩を窄めて身を縮めるなまえに足の力が抜けて、扉に凭れ掛かるようにずるずるとその場に座り込んだ。

「不死川さん!大丈夫ですか?」

突然脱力した俺に動揺したのか、なまえが慌てて駆け寄ってきて俺の真正面に座る。
その瞬間にふわりと漂ってきた甘い香りに、落ち着き始めていた動悸が再び騒ぎ出すのを否応無しに自覚させられる。

狼狽えているなまえに返事もせず、項垂れたままフーっと息を吐き出してから、おもむろに顔を上げた。

「⋯なァ」
「大丈夫ですか!?今お医者様を⋯」

そう言って立ち上がろうとしたなまえの腕を掴んで引き寄せると、引きずられるように座り込んだなまえと視線がぶつかる。

「お前は俺をどうしたいんだ?」
「え⋯」

真っ直ぐになまえの瞳を捉えながらそう問いかける。

「お前が言った通り、俺は生きることに価値なんざ感じてなかった。
 成すべきことを成した今、この世に留まり続ける理由もねェし、どの道近いうちにくたばるなら一人で逝った方が楽だと思ってた」

残される方も、残していく方も、どちらも同じくらいの苦痛と哀切と後悔に襲われるということを、なまえは知らないわけじゃないだろう。

過ごした時間の長さや密度がどれほどのものだったとしても、その存在の大きさに比例して、受ける影響は大きくなる。
人と生き、そして別れることは、どれほどの苦痛を伴うか俺達は知っている。

それを知っていて、それでもなお、なまえは俺から離れようとしない。

俺が生きることは、俺と生きることは、いつかなまえすらも苦しめることになると知っているくせに。
どれだけ身を尽くして世話したとしても、いつか悔やむことになるとわかっているくせに。

「お前は何がしてェんだ⋯」

家族を失って、血の滲むような修行に耐えて、それなのに剣技の才がないことで誰よりも悔しい思いをしたのはお前だろ。

鬼を殺せない自分を何度も責めて、それでも歯を食いしばって隠として身を捧げてきたんだろ。

お前はもう、十分苦しんできた。
もうこれ以上、苦しいとわかっている道を選ぶ必要なんかねェんだよ。

胸の奥から絞り出すように吐いた言葉を、なまえは静かに聞いていて。
少しの沈黙の後、小さな声が耳に届いた。

「不死川さんがどんな想いで日々を過ごしてきたか、わかっているつもりです。
 だからこれは、私の独り善がりな願望です」

一度言葉を切ると、なまえは視線を彷徨わせて躊躇いながらも、それでもはっきりとした口調で告げた。

「⋯この世界に、愛惜を持ってほしかった⋯」
「⋯どういう意味だ?」
「ずっと⋯、⋯ずっと、苦しみながら、悩みながら生きてきた不死川さんが⋯、⋯少しでも、生きることは案外悪くないって、⋯もう少し、生きてみようって思ってくれたら⋯」

射抜くような俺の視線に怯むことなく真っ直ぐに俺の瞳を見つめ返して、なまえは慎重に言葉を選びながら言葉を発する。

それは突き詰めれば執着と同義で、俺をこの世に縛り付けるものでもあるはずなのに、なまえの温かな声色で綴られるその言葉はまるで、俺ではなく神仏に向けての祈りのようにも聞こえた。

「⋯そしたら⋯、不死川さんを待っている人達が、⋯喜んでくれるんじゃないかなって⋯」

独り言のように呟かれた言葉が、胸に突き刺さった。

俺の幸せを願いながら死んでいった匡近や玄弥、俺に未来を託して死んでいったお館様や仲間達、犠牲になった数多の人間に繋がれた末の命をただ浪費することを、死んでいった奴らが喜ぶと思っているのか。

なまえの言葉の裏に秘められたその問いかけは非情にも思えるほど的を射ていて、瞬き一つできず息を呑んだ。

「っ⋯お前には、何も残らねェんだぞ⋯」

かろうじて苦し紛れに吐き出した台詞を、なまえはやんわりと笑いながら聞いている。

自分には一寸の利益もないとわかっていながら、残されることで再び苦痛とも言える悔恨に襲われるとわかっていながら、それでも自分の未来を俺に賭けようとしているのか。

その柔らかな微笑に隠されたなまえの想いに、身体中の熱が一気に頭まで駆け巡って目眩がした。

俺は、お前の未来を縛るような真似をしたくなかったんだ。
色々な柵からようやく開放されたなまえに、俺の身勝手な願望で再び枷をはめるような業だけは絶対にしねェと決めていたんだ。

それなのに、なんでお前は一途にその腕を差し出してくるんだ。

あぁ、もうわかった。

俺の負けでいい。