互い違いに枷をして
連れてこられたのは比較的新しい造りの集合住宅だった。
なまえは慣れた様子で建物に入っていくと、階段を上って細長い廊下を通り抜け、廊下の奥にある扉の前に立ってようやく俺を振り返った。
意図がわからず困惑している俺を見上げて小さく微笑むと、鍵を差し込んで扉を開いた。
「私の家です」
その台詞とともに通された部屋は明らかに一人住まい用とわかる間取りをしていて、最低限の家具だけが置かれた簡素な部屋の奥にひっそりと鎮座した簡易な仏壇が見えた。
言葉で言われなくてもわかる。
初めて知ったなまえの暮らしと人生に、言葉が喉の奥で塊になって引っかかる。
皆同じ境遇ではないにしても、鬼殺隊を志願した人間の大多数がどういう人生を歩んできたか知っていたはずなのに。
言葉に詰まった俺に気付いたのか、なまえはフッと表情を緩めると奥の仏壇まで歩いていき、何かを手にとって戻ってくる。
「祖母です」
その言葉とともに差し出されたのは、木の枠でできた写真立てに入れられた一枚の写真。
椅子に座った老齢の女性の傍らに立っているのは、今よりも幼く見えるもののなまえ自身なのだとわかった。
「両親と兄弟は鬼に食べられました。祖母は離れて暮らしていたので無事でした」
写真に視線を落としながら、静かな口調でなまえが続ける。
その声色には非難めいた色も悲観している色も含まれてはおらず、いつもと変わらない穏やかな音だけが響いている。
「両親と兄弟は骨も残りませんでした。
だから、何かあったとしても、形に残るものがあればと思って、鬼殺隊に入って初めていただいたお給金で写真を撮りに行ったんです」
そこで一度言葉を切ると、なまえは俺に向き直って顔を上げる。
真っ直ぐに向けられた視線が言葉を探して彷徨っていた俺の視線とぶつかって、小さく息を呑んだ。
わずかに身動いだ俺に、なまえは緊張を緩めて再度口を開いた。
「家族がいないから未来のことなんてどうでもいい、なんて思っていません」
「⋯⋯」
「不死川さんが言いたいこともわかってるんです。でも、これは、私が生きていくために必要なんです」
なまえが悲しげに吐き出した言葉の意味がわからなくて、眉間を寄せる。
「⋯どういうことだ?」
俺の問いかけに、なまえは一度唇を噛み締めると、視線を落としたままポツリと続けた。
「⋯祖母は、病気で亡くなりました。
あまり家に帰れない私が気に病むことを心配して、体調が悪いことを私に隠したまま、一人で、たった一人で、息を引き取りました」
ポツリポツリと落とされる言葉は深い悲しみを湛えているのに、夜の海のようにただただ静かだった。
なまえはきっと、もう何度もそれと向き合ってきたんだろう。
「私は嫌です」
かける言葉を探していたら、なまえが唐突に強い意思の宿る口調でそう言い切った。
思いがけない言葉に視線を上げるが、鋭い語気とは対照的に、なまえはわずかに哀情を滲ませた様相で俺を見据えている。
「私は鬼殺隊で何もできませんでした。剣技の才がなく、鬼を殺すことすらできなかった」
「⋯それはお前の責任じゃねぇだろ」
「そんな人間の代わりに、不死川さん達は戦ってくれました。色々なものを犠牲にして、それでもなお、命を賭けてくれた」
誰かのためじゃない、自分のためだ。
そう言おうとしたのに、なまえの言葉を引き金に、自分の手で殺めた母親や冷たくなった兄弟、死んでいった匡近や玄弥、色々なものが唐突に脳裏に蘇ってきて言葉が出てこなかった。
失いたくて失ったわけじゃない。誰しもそうだ。
亡くしたものの大切さに気付きたくなくて、零れ落ちたものを見ないフリをして、そうやって生きてきた俺の時間は、すべての鬼を殲滅した瞬間に止まった。
俺の中の時間はとっくに停止していて、あとは外の時間が勝手に連れてきてくれる死を待つだけだった。
無意識でそうしていた。
そうしなければ、残された時間を過ごせる気がしなかった。
時を止めずに生きることは、
「⋯どうして⋯、どうして不死川さんが、生きることを苦しまないといけないんですか?」
苦しいんだ。
後悔と懺悔を繰り返し、己の無力さに苛立ち、絶望と憤怒が交錯する日々が、俺にとっての生きることだった。
それが生きていくための原動力だった。
だから俺は、生きることに執着しなかった。
「何もできなかった私が未来への道を開かれて、その道へ導いてくれた人がずっと苦しいままなんて、私は嫌です」
生きることを放棄している人間のことなんて放っておけばいいだろう。
雲ひとつない空のように澄んだ瞳で俺を見据えるなまえは、きっと俺の胸の奥に湧いたそんな悪態にすら気付いていて、それを口にしたところで顔色一つ変えないんだろう。
「⋯私は祖母を看取れなかったことを、今でも後悔しています。心に掛かっている黒い靄を取り払わないと、前を向けないんです。⋯だから、これは私の我儘なんです」
そう言って少しだけ水分を含んで揺れる瞳で柔らかく微笑んだなまえの姿が、その日からずっと瞳の奥に焼き付いて離れなかった。