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背中合わせの恋煩い 第3章

初めて柱合会議でなまえを見たときは、物静かな印象の人だということだけだった。

それでも、不意に目が合ったときに見せた驚いたような表情や、不死川の無遠慮な言葉に唇を噛み締めた悔しそうな表情、胡蝶や甘露寺と他愛ない話を楽しそうにしている表情は、変化に富んでいて見ていて飽きなかった。

気が付けば目で追うようになっていた。
そして同時に、時を重ねるほどになまえとの距離が生まれていることにも気付いていた。

それに気付いてもなお、同僚として彼女の武運と幸福が続くことを願う気持ちは変わらなかった。

それなのにあの日、不在にしていたばかりに魔禍の討伐になまえを向かわせてしまい、結果彼女の人生を狂わせた。

『抱いて、ください⋯』

縋るように羽織を握り締められて熱を帯びた瞳でそう求められた瞬間に、今まで秘めていた想いを抑えきれなくなった。

魔禍の術を利用して欲を満たしたのは、紛れもなく俺自身だった。

なまえがただ、自分ではどうすることもできない熱を持て余して偶然目の前に現れた俺に手を伸ばしてきただけだとしても。
それでも良かった。

与える快楽を必死に受け止めながら、この一時だけでも俺を求めてくれただけで幸せだった。

あの夜はただそう思っていた。

それなのに。

『責任を取りたいんだ』

俺が自分を制することができなかったが故に生娘ではなくなった彼女に、半ば脅しとも言える理由を並べ立てて結婚を迫った。

己の中にそんな姑息で卑しい思惑が潜んでいたことに屈託し、辟易しながらそれでも、どんな手を使ってでも、なまえを手に入れたかった。

他の男に渡したくなかった。
なまえの手を取るのも、なまえの瞳に映るのも、なまえの隣を歩くのも、自分でありたいと思ってしまった。

『父上。結婚したい女性がいます』
『⋯どんな女だ』
『私と同じ鬼殺隊の柱をしています』
『強い女を選んだか。弟がアテにならんから子に継がせる気か』
『子を為すために結婚するわけではありません』
『は?』
『彼女の自由や意思を奪うつもりもありません』
『⋯じゃあ何のために結婚する』
『私が彼女の傍にいたいからです』
『ふざけるな!お前は長男だぞ!そんな勝手が罷り通るか!!』

なまえと結婚したいと伝えたとき、父上には子を為さないなら許さないと頭ごなしに否定された。

それでも数ヶ月かけて父上を説得し、最後は『勝手にしろ!』と匙を投げられたのをいいことになまえに結婚を申し込んだ。
生まれて初めて我を通した。

父上に伝えた通り、なまえに妻や嫁としての務めを押し付けるつもりはなかった。

なまえの自由や意思だけは、それだけは守り通そうと思った。
その未来を奪ってしまった代償として。

再び抱いてしまえば、歯止めが効かなくなることはわかっていた。

だからなまえが俺の部屋へ来た時も、踏みとどまった。
不本意な状況であろう彼女の最後の砦を、自分の手で壊すわけにいかなかった。

『杏寿郎さん』

例え魘夢の夢の中だったとしてもなまえに会えて良かった。

想い人に呼んでもらえるだけで、名前はこんなにも特別な響きを持つものなのか。

ああ、そうか。

猗窩座に名を呼ばれた時に感じた得も言われぬ嫌悪感は、夢境でなまえに名を呼ばれた幸福感があったからか。
彼女が呼んでくれた名をお前如きが呼んでくれるなと無意識で思ったのか。

俺はこのまま死ぬのか。

弱き者を助ける使命を全うすることが俺が生きている意味だった。

それを果たせたのであれば、悔やむことなど何もない。

それでも。

最後にもう一度だけ、本物のなまえに会いたかった。

胡蝶や甘露寺に見せていたあの笑顔を、俺も見たかった。

宇髄の話をした時に不意に溢れたあの微笑みを、俺が作りたかった。

情けないな。

俺がいなくなっても、どうか君が気に病まないように。

泣く必要もない。
悲しむ必要もない。
あの家に残り続ける必要もない。

今度こそ自由になってほしい。

幸せになってほしい。

それだけを願っている。