背中合わせの恋煩い 第3章
「杏寿郎⋯」
苦々しく顔を歪めながら猗窩座が名を呼ぶ。
「なんだ、それは」
「⋯?」
猗窩座が左腕を伸ばし俺の胸元を指す。
その指先を辿った先にあったのは、なまえからもらったあの香袋だった。
猗窩座の技を受けた衝撃故か、隊服もろとも破れた香袋からはあの不思議と落ち着く香りが立ち上り、香袋の中身と思しき液体が滴っている。
「妻からもらったものだ」
「何が入ってる?たまらなく嫌な臭いがする」
「中身は知らない。知っていてもお前に教える義理はない」
その言葉に猗窩座がギリギリと歯を食いしばる。
あれほど驚異的な回復力を誇っていたはずの猗窩座の右腕は、まるで朝日を浴びたかのように原型を留めれらずにいる。
「くそ⋯なんなんだ⋯」
破れた香袋から漂う香りが風に乗り猗窩座に届いたのか、明らかに猗窩座の挙動が不審になる。
「やめろ⋯やめろ⋯」
独り言のように呻きながら猗窩座が後退る。
「っ、こゆ⋯」
「⋯?」
突然、猗窩座が遠くを見据えたまま動きを止める。
その視界に映っているのはおそらく現し世ではない、猗窩座の中に眠る世界なのだろう。
「あああああああ!!」
「!」
頭を抱えた猗窩座が突如として叫び声を上げ、何かを振り払うように左腕を大きく振りかぶる。
「っ!」
「危ない!」
猗窩座の背後にいた固まったままの猪頭少年に、猗窩座の振りかぶった腕が振り落とされるのが見えた瞬間、体が動いた。
ーガッ!
猗窩座と猪頭少年の間に割り入って猗窩座の拳を剣で受ける。
「っ⋯」
折れた肋骨が内蔵に刺さる感触がする。
「その香りを俺に近付けるな⋯」
猗窩座との距離が近付いたことで香りが一層強くなったのか、猗窩座が瞳孔を開いて荒い息を繰り返しながら呟く。
「ここにいる者は誰も死なせない」
「そんなことはどうでもいい⋯。俺は⋯お前と戦いたい⋯」
そう言いながらも、猗窩座は距離を取るように後退る。
チチチ、と鳥の鳴き声がしたと思ったら、遠くの山間からゆっくりと日が昇るのが見えた。
「くそっ⋯」
忌々しげに舌打ちをして、猗窩座は俺たちに背を向ける。
「杏寿郎、次は逃さない」
それだけ言い残して、猗窩座はいまだ再生しきっていない右腕を庇うようにしてその場から立ち去った。
「ゴホッ」
「煉獄さん!」
深く息を吸い込んだところで、喉奥から生ぬるい血の塊が込み上がってきて思わず咳き込む。
泣き出しそうな顔をしながら駆け寄ってきた竈門少年も、ようやく意識を取り戻した猪頭少年も、皆無事か。
そう思った瞬間、体から力が抜けてその場に倒れ込んだ。