背中合わせの恋煩い 第2章
帰路をどうにか乗り越えて帰宅したのは、夜も更けた頃だった。
風呂に入り湯上がり着に着替え、濡れた髪を手ぬぐいで乾かしていたところでふと手が止まる。
煉獄さんは覚悟を決めてくれていた。
それならば私もいい加減、煉獄家へ嫁いだ者として務めを果たさなければいけない。
鏡に映る顔には隠しきれない緊張が走っていて、動悸する胸を押さえた。
煉獄さんの部屋の前まで来ると、そっと床に膝をついて襖越しに声をかける。
「煉獄さん」
「ん?」
「あの、お部屋に上がってもいいでしょうか?」
「構わないが⋯」
その返答を聞いて襖をゆっくりと開けると、文机に向かい合っていた煉獄さんがこちらを向いていた。
煉獄さんが今まで書き物をしていたであろう文机の隣に腰を下ろし、煉獄さんと向かい合う。
「⋯⋯⋯」
「どうした?」
座り込んだまま言葉を発さない私を不審に思ったのだろう、煉獄さんが訝しげな顔をして私を見下ろしている。
「⋯あ、の⋯⋯」
激しく波打つ心臓を必死に抑えて、私は息を深く吸い込んで鼓動を抑える。
「その、⋯っ、煉獄家の嫁として⋯の、務めを⋯ 」
絞り出すようにそう言った声は頼りなく、着物の襟元にかけた手が震えている。
こんなの、抱かれたいと自ら告白しているようなものだ。
羞恥やら緊張やら後悔やら、色々な感情が湧き上がってきて言葉が詰まり視界が滲む。
煉獄さんの顔が見れない。
俯いて硬く目を瞑っている私の耳に、スッと衣擦れの音が届いて煉獄さんの気配が動いたのがわかった。
「っ」
包み込まれるような温かさを感じてそっと目を開けると、私の体は煉獄さんに優しく抱きしめられていて、煉獄さんの杏色の髪が視界を覆っていた。
わずかに身動ぐと煉獄さんの体がゆっくりと離れて、ようやく見えた煉獄さんの顔には控えめな笑顔が浮かんでいた。
いつもの快活な煉獄さんには珍しい、弟君の千寿郎さんを彷彿とさせる眉の下がった困り顔。
「あ⋯「無理しなくていい」
煉獄さんが柔らかく微笑んで、なだめるように私の頭を数回撫でる。
「無理しなくていいんだ」
「⋯でも、」
「俺はそういうつもりで君と結婚したわけじゃない」
その言葉が冷水のように降りかかって、一気に世界が色を失った気がした。
そうだ。
煉獄さんは責任をとって結婚してくれただけで、夫婦になるという道を選んだ以上距離を縮めることはしたとしても、それは家族を作ることと同義ではない。
「それに、君は妻としてよくやってくれている」
「⋯⋯そう、でしょうか⋯」
「ああ。今のままで十分なんだ」
煉獄さんは優しく笑いかけてくれたけれど、大きな鉛の塊を飲み込んだかのような重い苦しさがこみ上げてくる。
「⋯煉獄さんのご家族に、顔向けできません⋯」
「父上には伝えてある。うちのことは心配しなくていい」
その言葉に、結婚の許可をいただくのに手間取ったと言っていた煉獄さんを思い出して腑に落ちた。
結婚相手を自分で決めたことに対してだけでなく、この人は子を為さないことも含めて許可を求めたんだ。
煉獄さんは、はじめからそのつもりで結婚したんだ。
そう思ったら急に体の力が抜けた。
「気を遣わせてしまったな」
「いえ⋯こちらこそ、気を遣わせてすみません」
かろうじて残った力で煉獄さんの腕の中から抜け出すと「おやすみなさい」と張り付いた笑顔を浮かべて煉獄さんの部屋を後にした。
自室へ戻り、開け放った窓へ体を寄せる。
薄い月が時折雲に隠れると、暗闇の一部になったような錯覚に陥る。
家事をこなすだけの役割しか果たせないまま、この先もずっと煉獄さんの傍にいていいのだろうか。
このまま煉獄さんを縛り付けていていいはずがない。
私が煉獄さんにしてあげられることは何が残されているのだろう。
この答えを煉獄さんに問いかけたところできっと、返ってくるのは思いやりに満ちた言葉と優しい笑顔なんだろう。
いっそ罵って蔑んで雑に扱って捨ててくれればいいのに。
憎悪をぶつけられた方がどんなに楽だろう。
もう涙は出ない。
体の力と一緒に気力まで抜け落ちてしまったような気がして、窓枠にもたれかかるとそのまま目を閉じて眠りに落ちた。