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虹色のナラタージュ 第1章

それから数日は平穏な日々だった。

普通の人と変わらない、他愛もない会話をしながら家事を片付けて向かい合って飯を食って、その合間に時々肩を寄せ合いながら海を眺める。

俺もなまえも、里の話には一切触れなかった。
現実から目を背けたくて、おそらくは互いに意図的に話題に出すことを避けていた。

だけど、そんな日々がいつまでも続くはずはない。

ある日、なまえを家に残したまま買い出しから帰宅した俺を迎えたのは、踏み荒らされた空っぽの部屋だった。
土間に残されたなまえの履物に気付いて、冷水を浴びたように身体が冷える。

反射的に荷物を放り出して、まだ新しい足跡を追う。

半刻ほど走って山に足を踏み入れたところでようやく、なまえを抱えて飛ぶように走る弟直属の隊を見つけた。
気配を殺して音もなく距離を詰めて、手にした刀で後列にいた男の首を一息に引き裂いた。

「!」

奇襲に気付いた奴らが足を止めて、無表情のままこちらを振り返る。

刀を持ち直すと、付け焼き刃の隊を組んで向かってくる奴らの真ん中に飛び込んで、息をつく暇もないほどの速さで全員の息の根を止めた。

一瞬にしてただの肉の塊になった奴らを足で転がして、放り出されて茂みに座り込んだまま動けずにいるなまえに近寄る。
一部始終を見ていたなまえの顔は青ざめていて、言葉もない。

「怪我はないか?」

俺の問いかけに小さく頷いたなまえの頭を撫でて抱え上げると、その場を後にした。

今思えば、俺が無感情に人を殺す様を初めて目にしてしまったことが、この後の取り返しのつかない結果を招いたんだろう。
守ったつもりになって、結局何一つ守れなかったんだ。

雑木林を抜けた先にあった小屋に身を寄せて一息ついたとき、俺に肩を抱かれたままのなまえが不意に顔を上げた。

「天元」
「ん?」

小さく呼びかける声に反応してなまえを見下ろすと、なまえが懇願するように俺の胸をギュッと掴んでこちらを覗き込んでくる。
そうして続けざまに紡がれた言葉に、思考が停止した。

「⋯抱いて」

あまりにも唐突なその台詞を脳が処理できなくて、言葉に詰まる。

聞き間違いかとも思ったが、服を掴むなまえの手に力が入り、訴えるような瞳で見つめられてようやくその言葉の意味を理解する。

「お願い」
なまえ、でも⋯」

抱きたくないわけじゃない。

でも、弟に刻まれた傷はまだ癒えてないだろう。
痛みを堪えるなまえの姿が思い起こされてしまえば、その誘いを素直に喜んで便乗することなどできるはずもない。

「平気だから。⋯お願い⋯」

それでもなまえの悲痛にも聞こえる懇願を前にしては、それを突っぱねることもできなくて。
押し切られるままになまえの身体に触れた。

痛みを感じさせないように細心の注意を払って。
触れれば割れて消えてしまう泡沫のように脆く儚いその身体を壊さないように、優しく、丁寧に。

本能のままに突っ走りそうになる欲望を必死に抑えながら、なまえの反応にだけ心を配って、時間をかけてようやく繋がったときのあの温もりを、幸福感を、俺は一生忘れることはないだろう。

汗を滲ませながら、涙を零しながら、それでも嬉しそうに微笑んだなまえを、今でも鮮明に思い出せる。
俺を呼ぶ優しい声も、触れ合った身体の熱も柔らかさも、鼻孔をつく甘い香りも、何もかも。

死んでも忘れることはできないだろう。

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