虹色のナラタージュ 第1章
なまえを見つけたのは、屋敷を出た翌日のことだった。
峠を越えれば他の村に辿り着ける山の方ではなく海の方へ向かったのは、ただの勘みたいなものだ。
木々が生い茂る薄暗い山よりも、澄んだ空と同じ色をした太平な海の方がなまえに似合う。
ただそれだけの理由で海の方へ向かった。
海岸と道を隔てる雑木林を抜けて馬鹿みたいに広い海を前にして息をついた。
そのまま柔らかい感触の砂浜に足を踏み入れて、しばらく海岸沿いに歩いていた俺の視界が人影を捉える。
砂浜に流れ着いたらしい流木に腰を下ろして海を見つめるなまえ。
隠れる気もないのか、逃げてきたそのままの姿で真っ直ぐに海を見つめている。
変装するでもなく身を隠すでもなく、ただボンヤリと海を眺めるなまえに困惑しながら、激しく鼓動する心臓を抑えて音もなくなまえへ近付いた。
「ーなまえ」
呼びかけになまえがゆっくりと振り向く。
「ー⋯っ」
久しぶりに見たなまえの姿に言葉を失い、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚える。
暴行を受けた痕が残る腕や首元は赤黒く染まっていて、艷やかだった顔にも無数の痣と傷が浮かんでいる。
その身体は記憶にあるよりもさらに細くなっていて、そのまま消えてしまいそうなほど儚い。
それ以上に、あの穏やかな柔らかい微笑みが、温かい眼差しが、見る影もなく消え失せていた。
全てを諦めたような色のない瞳と感情を押し殺した固い表情が俺を見据えた瞬間、足は縛られたように動かなくなり、言葉は喉元で詰まったまま消えていった。
それでも。
「⋯天元⋯」
虚ろな瞳が俺を捉えたと思ったら、なまえが小さく俺の名前を呼んで表情から力が抜けたように見えた。
なまえは小さく息をついて立ち上がると、動けずにいる俺の元へ歩み寄る。
俺の表情を窺うように見上げてわずかに微笑み、隠し持っていたらしいクナイを取り出して俺の手を掴むと、その手にクナイを握らせた。
「⋯いいよ、殺して」
クナイを握った俺の手を掴んで自分の喉元まで持ってくると、静かに瞳を閉じる。
己の首元にクナイの切っ先を導こうとなまえは俺の腕を掴む手に力を込めるが、細く弱い手ではそれを許すまいと踏ん張る俺の身体をわずかにも動かすことはできない。
俺になまえの喉を切り裂く気がないと気付いたのだろう、なまえは固く閉じていた瞳を開けると、光を映さない瞳で真っ直ぐに俺を見た。
「殺して、天元⋯」
「できない」
「⋯私を連れ戻す?」
悲しげな顔で微笑んだなまえに言葉を返すこともできない。
必死の思いで逃げ出してきたなまえをもう一度、あの地獄のような屋敷へ連れ戻す?
そんなこと、できるわけねぇ。
答えを出せずに眉間に皺を寄せて目を閉じるが、そうしたところで代替策が浮かんでくるわけでもない。
どうしたらいい。
どうしたら、なまえを助けられるんだ。