虹色のナラタージュ 第1章
それからの日々は地獄だった。
弟の部屋の前を通るたびになまえの悲痛な叫び声が聞こえてきた。
しばらくするとそれすらも聞こえなくなって、弟の苛立つ声と暴れる音に混じって微かに聞こえる呻き声だけが、なまえが生きている証だった。
いや、本当に地獄だったのは俺じゃない。
なまえの方だ。
この世の濁りなど知る必要もない温かい場所で平穏に生きてきたなまえが、家族も家も未来も何もかもを奪われて、好きでもない男から暴行を受けて過ごす日々は地獄以外の何処でもない。
薄暗い部屋から出ることも許されず、締め切った息苦しい部屋でなまえは何を思っているのか。
鮮やかに輝いていたあの瞳は、今何を見ているのか。
日々与えられる任務を何の感情も持たずにこなしながら、脳内を占めるのはなまえのことだけだった。
そんな何一つ変えられない呵責に苛まれ続ける日々に変化が訪れたのは、突然のことだった。
任務を終えて自宅の敷地に入ると同時に、ついぞ見たことのないほど険しい顔をした弟が無言で詰め寄ってきたかと思ったら、苛立ちを隠さない口調で言葉を吐き捨てた。
「なまえが逃げた」
「は⋯?」
予想だにしなかった台詞を脳が処理し切れなくて、思わず間の抜けた声で聞き返す。
まさか、という思いが先行して頭が混乱するが、弟から滲み出る苛立ちと焦りはそれが真実であることを物語っている。
「なまえを探して連れ帰るのが次の任務だ」
「⋯⋯」
「お前が戻るまでお前の嫁はこちらで預かる」
「あいつらは関係ねェだろ」
「なまえを見逃しでもしたら、嫁は殺す」
それだけ言い捨てて、弟は忍には似つかわしくない荒々しい足取りで屋敷へ戻っていった。
おそらく、俺以外にも数名に同じ任務を指示するのだろう。
自室へ戻ると、3人が正座をして俺を待っていた。
不安気な顔を浮かべる3人の正面に座ってその顔を見回してから、ゆっくりと頭を下げた。
「巻き込んで悪い。⋯なまえを探「天元様」
俺の言葉を遮った雛鶴の声に頭を上げる。
「私たちのことは気にしないでください」
凛とした声で言い切ったその言葉を理解できなくて、眉を寄せる。
そんな俺を見て、3人は顔を見合わせてコクンと頷くと再びこちらに向き直る。
「私たちへの気遣いは必要ありません」
「天元様のしたいようにしてください」
「わ、私たちは平気でずぅ!」
「須磨、泣くんじゃない」
「だっでぇぇ」
泣き出した須磨を雛鶴が慰める傍らで、まきをが真っ直ぐに俺を見て言葉を続ける。
「あたしたちは天元様の妻になれて幸せでした。
人に決められた結婚でしたが、夫が天元様で本当に良かったと思っています」
まきをの言葉に、雛鶴と須磨も頷く。
「でもそんな天元様を形作ったのは、なまえさんだから」
「ー⋯」
「天元様の大切な人は、あたしたちにとっても大切な人です」
「ここに戻る必要はありません。行ってください、天元様」
躊躇いがなかったわけじゃない。
なまえを選ぶということは3人を見殺しにするということで、その選択を俺ができるはずもなかった。
なまえを見捨てることもできないくせに。
それでも、覚悟を決めた表情で笑う3人に甘えて、その言葉に背中を押されて、どうしたらいいかもわからないまま、俺は押し切られるように屋敷を飛び出した。