背中合わせの恋煩い 第5章
「断る」
「え⋯」
頭上から聞こえてきた声に下げた頭を上げようとしたら、それよりも早く腕を引っ張られて思わず前のめりに倒れ込んだ。
倒れ込んだ身体は煉獄さんに抱き止められて、気が付けば煉獄さんの腕の中にいた。
「離縁はしない」
「でも、」
「⋯ようやく合点がいった」
「え?」
独り言のように呟かれたその言葉の意味は全く見当もつかなくて、疑問が頭を駆け巡る。
「君が好きだ」
「え⋯」
突然耳元で呟かれた、予想だにしなかった言葉を理解できなくて思考が停止する。
なんて、言ったの?
「魔禍の屋敷での出来事があるずっと前から、俺は君が好きだった」
「嘘⋯」
「嘘じゃない。でも君に距離を置かれていることはわかっていたし、嫌われていると思っていた。術中に陥っている君を利用して、欲を満たしたのは俺の方だ」
苦しげに吐かれた言葉に胸が締め付けられる。
「関係を持ったことを盾に結婚を迫ったが、君の自由と意思だけは守ろうと思った」
「な⋯んで、そんな⋯」
「君の人生を狂わせた以上、それ以上責務を負わせたくなかった」
守られていた?
煉獄さんが距離を保っていたのは、私の為だったの?
「君が傍に居てくれるだけで良かったんだ」
囁くように落とされた言葉がじんわりと心を温めていく。
これは、夢だろうか。
「なまえがいいんだ。君以外の人は考えられない」
「れ、ごくさ⋯」
煉獄さんの服を掴んでその胸に顔を埋めると、頭と腰に回された腕に力が込められた。
回された腕から、触れた身体から、熱がゆっくりと伝わって冷え切っていた身体が温められる感覚がした。
「君を愛している」
耳元で吐かれた台詞が頭に響いて、現実感がない。
こんな都合のいい展開があっていいのだろうか。
胸を刺す甘い痛みに息が詰まって、のぼせた頭はうまく働かなくて、それでも何か伝えたくて声を振り絞る。
「⋯煉獄さん⋯」
「名前を、呼んでくれ」
「⋯っ、杏寿郎、さん⋯」
「うん」
「好き、です⋯。誰よりも、ずっと⋯っ」
ようやく伝えられた嘘偽りのない言葉。
伝えないまま消えていくはずだった想い。
ちゃんと届いただろうか。
そんな不安が頭を過るけれど、胸の奥で言葉が閊えてそれ以上出てこない。
私を拘束していた腕からフッと力が抜けたことに気付いて、顔を上げる。
涙で滲んだ視界の先に、ひどく優しい顔で微笑む煉獄さんが見えた。
煉獄さんの逞しい手が頬を滑り、心地良いその感触に思わず目を閉じて追いかけるように頬を擦り寄せた。
「っー⋯」
突然、唇に柔らかい衝撃を感じる。
「っ、⋯んっ⋯」
唇を割り口内に侵入してきた舌尖を、必死に受け止める。
クチュクチュと厭らしい水音を立てて、温かいを通り越して熱いとすら感じる深い口付けに、思考が逆上せる。
「ん⋯、はぁ⋯」
「ー⋯」
口内を存分に堪能し、名残惜しそうに離れた煉獄さんの唇は妖しく艶めいている。
頬を上気させ涙に濡れた私はきっと、酷くだらしない顔をしているのだろうと思うと、堪らない羞恥心が湧き上がって目を伏せた。
「可愛いな、君は」
その言葉と共に額に落ちて来た口付けに、溢れそうになる涙を堪えて顔を上げる。
「出来るならこのまま君を抱きたい。が⋯今はそれよりも睡眠が必要だな」
眉を片方上げて困ったように微笑む煉獄さんに、言い様がないほどの愛しさが込み上げる。
煉獄さんを見て惚けていたら、突然軽々と抱き上げられる。
「れ、煉獄さん!」
「あまり騒ぐと落ちてしまうぞ」
「でも、怪我がっ⋯」
「君を運ぶくらい訳ない」
至近距離に見える煉獄さんの精悍な横顔に奪われる目線を必死に逸らして、煉獄さんの着物をギュと掴む。
「れ、っ⋯、杏寿郎さん⋯」
「なんだ?」
「⋯杏寿郎さんの、隣で⋯寝たいです」
「っ」
煉獄さんの瞳が大きく開いて視線が私に落とされる。
不快にさせてしまったのかと思い至って訂正しようと口を開いたところで、煉獄さんが深く瞬きをして息をついた。
「起きたら覚悟してくれ」
「えっ」
不敵に笑う煉獄さんのその言葉の意味を実感したのは、それから数時間後のことだった。