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背中合わせの恋煩い 第5章

「傷の手当をするから風呂に入っておいで」と言われ、回らない重い頭を抱えて言われるがままに湯船に浸かる。

湯船に口元まで浸かって膝を抱える。
困惑する思考回路を遮断するように瞳を閉じても、煉獄さんの怒った顔も、苦しそうな顔も、悲しげな顔も、初めて目にした様々な表情が瞼の裏に浮かんできて脳を支配する。

どうして煉獄さんが心配するのだろう。

そもそもどうして此処にいるのだろう。

わからない。

煉獄さんが帰ってくる前に、やらなければいけない事がたくさんあったのに。

風呂から上がると煉獄さんが廊下で待ち構えていて、逃げ出す事も叶わず手を引かれ居間に連れて来られる。

医薬品が広げられた座卓の横に向かい合って座ると、煉獄さんが手際よく処置をしていく。
時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。

「俺は言葉が足りないと胡蝶に言われた」

静寂を断ち切って、不意に煉獄さんがポツリとそう言った。

「自分で考えろとも言われたが、どうやら俺は人の気持ちを察することが得意じゃないし、憶測で結論を出すことはしたくない」
「⋯⋯」
「だから、単刀直入に聞く」

一度言葉を切って手当する手も休めて、煉獄さんは怒るでもなく咎めるでもなく、ただ穏やかに問いかけてくる。

「どうしてこんな無茶をした?」
「⋯⋯」
「どうして誰にも連絡しなかった?」
「⋯⋯」
「⋯俺と離縁したら、君は幸せになれるのか?」
「っ⋯」

煉獄さんの右目が真っ直ぐに私を捉える。

喉奥に詰まった言葉の代わりに目の奥がじんわりと熱くなり、息を吐いた瞬間に熱い滴が溢れ落ちた。

「君の気持ちを知りたい」

静かに諭すように、煉獄さんがそう言った。

いつかは、と覚悟はしていた。
煉獄さんの真っ直ぐな瞳から逃げることも、偽りの言葉で取り繕うことも、もうできなかった。

もう、これで終わりにしよう。

「⋯私はずっと、後悔していました」
「俺と結婚したことをか?」

フルフルと首を振る。

「⋯魔禍の屋敷で、あなたに非常識なお願いをした事を。
 あのときあんな頼み事をしなければ、あなたの未来を奪わずに済んだのに」
「⋯どういうことだ?」

その言葉に煉獄さんが治療の手を止め、顔を上げた。

「人を無碍に扱う事は出来ないあなたの性分を知りながら、私はあなたに縋りました。無関係なあなたを、自分勝手に巻き込んだ」
「それは俺が「それでも」

「それでも、私は幸せだったんです」

涙で視界が歪んで、煉獄さんの顔がぼやけていく。

「あなたに抱かれて、私は幸せだったんです。
 気持ちがなくても、一夜の夢でも、初めての相手が煉獄さんで良かった」

腕を掴まれていては溢れ出る涙を拭うことも出来なかったけれど、こんな言い訳がましい戯言、まともに顔を見て伝えられないから構わなかった。

「一時の夢で良かったんです。それ以上の欲は、出すべきじゃなかった」

そう思っていたのに。

「結婚を申し込まれたとき、そう仕向けたのは自分なのに、嬉しくて、あなたの隣に居られるならと、欲を出してしまったんです」

己の欲すら自制できない愚かな行いであると気付いていたのに。

「でも、結婚してから、幸せに比例して罪悪感も大きくなりました。
 あなたがいつか出会うはずだった最愛の人との未来を、私が奪ってしまったことが耐えられなかった」

一度擡げた罪の意識は、何をしていても消えることはなくて。
それどころか事あるごとに、責め立てるようにその存在をチラつかせてくる。

「私はあなたの足枷にしかならないと気付いていたのに、あなたが倒れるまで自分の業から目を背けていたんです」

なんて愚かで惨めな人間なんだろう。
こんな本性を知れば、自ら言い出すまでもなく切り捨てられるだろう。

「私があなたに償えることがあるとすれば、少しでも鬼のいない世界にする事だけで、それが叶うならどうなっても良かった」

願わくば、そこで命を散らしてしまいたかった。

「私は煉獄さんの優しさを利用して、自分の欲を満たしたんです」

煉獄さんの手をそっと抑えて、掴まれていた腕を引き出した。

「どれだけ謝っても許される事ではありません。私を離縁してください」

押し潰されるほどの慚愧の念と、醜い懺悔を何も言わずに静かに聞いてくれた感謝を込めて、三指をついて深々と頭を下げた。