背中合わせの恋煩い 第4章
蝶屋敷から自宅までは歩いて丸一日はかかる。
早く帰宅したい気持ちこそあるものの、回復したばかりの体は以前と同じように動くものではなかった。
ひたすらに足を動かして家路を急いだものの、数刻後には蝶屋敷を出たときはまだ真上に位置していた太陽が西の空に沈んでいき、足元に長い影ができる。
今日はここまでか。
偶々視界に入った道なりに建つ宿の暖簾をくぐる。
愛想の良い従業員が座す受付所で宿泊の手続きを済ませると座敷に通された。
部屋に案内してくれた女将が簡単に施設の説明をするのを聞きながら、荷を下ろす。
「お食事はお部屋にお運びいたします。お風呂は大浴場がございますので其方をご利用ください」
「大浴場があるのか!それはいいな」
「当宿の湯は薬湯ですので、お怪我されてる方には最適でございます」
「そうか、それはありがたい!」
適当に選んだ宿ではあったものの、存外良い宿だったのは素直に嬉しく思う。
「ところで⋯お客さまはお侍さまでございますか?」
「ん?⋯そのような者だ」
至るところで被害が出ていても、鬼の存在を知らない人は多い。
公的な組織でない鬼殺隊の名を出すのは憚られるが、帯刀しているのを見られてる以上否定するわけにもいかず言葉を濁した。
「左様でございますか」
しかし女将はそれ以上尋ねることはせず、実に好意的な笑みを浮かべて三指をついて礼をすると部屋から出て行った。
女将の態度に疑問を覚えたものの、不穏な気配や害意は感じない。
それならば考えても仕方ないなと気持ちを切り替えて風呂の支度を始めた。
「ここが大浴場か!広いな!」
夕食まで時間があるので先に風呂に浸かりに大浴場へ来てみれば、効能ごとに分かれているのか複数の湯船が配置されており十分な広さだった。
他にも宿泊客がいるようでチラホラと数人の人影が見える。
体を洗ってとりあえず切り傷擦り傷に効くと書かれた湯へ入る。
目の傷が果たして一般的な切り傷や擦り傷にあたるのかは不明だが、毒にはなるまい。
温かい湯にゆっくりと浸かっていると体の疲れが一気に解けていくような感覚になる。
暫く目を閉じて心地良さに身を委ねていると、同じ湯に二人の男が連れ立って入ってきた。
「本当、何事もなくて良かったな」
「ああ、全くだ。噂を聞いたときは肝を冷やしたものだったが⋯」
聞こえてきた会話に思わず彼らの方を向くと、こちらの視線に気付いた彼らが愛想良く会釈する。
「失礼!今の話は?」
「ご存知ありませんでしたか?最近このあたりで人が消える事件が起きていたんです」
「人が消える?」
「ええ。商人が襲われて荷ごと消えてしまう事件が相次いでいたんです」
「起きていた、というのは?」
「それが最近急にピタリと収まったようでして⋯」
鬼だとしたら、おそらく鬼殺隊が動いたのだろう。
「不穏な事件が起きた地域は他にもあるのですが、不思議なことに少し噂になると途端にピタリと止むのです」
「噂が広がるのを危惧しているのか?」
「それが事件の手口は残忍で大胆なものばかりでして、噂で鳴りを潜めるような者とは思えないのです。義賊が暗躍してるんじゃないかと専らの噂です」
「義賊でも何でも、ありがたいことには変わりないけどなァ」
「そりゃ同感だ」
そう言って笑い合う彼らに笑みを返す。
鬼殺隊にしては随分と仕事が早い気がするが、市井の安全が保たれるのは結構なことだ。
風呂から出て部屋へ戻ると、ちょうど女将が食事を運んできた。
机の上に並べられた食事は聞いていたものよりもはるかに豪勢なものであるように思えて思わず首を撚る。
「食事を間違えてないか?」
「いいえ、こちらは当宿からの心ばかりの気持ちでございます」
「?もてなしを受ける心当たりはないが」
よくよく話を聞けば、数日前に宿の若旦那が夜道を歩いていた折に異形のものに襲われかけたが、既のところで刀を持った人物に助けられたらしい。
礼をしようとしたが、若旦那が言葉を発するよりも先にその人物は何も言わずに走り去ってしまったと。
「暗闇でしたので、手がかりが刀をお持ちだったということしかありませんで。
刀をお持ちの方をもてなせばいつか礼ができるのでは、と」
異形の者が鬼であるなら、その人物は鬼殺隊である可能性が高い。
「生憎その人物は俺ではないが、近い所にいるやも知れんな!」
「見つかった折には、ぜひお礼をしたがっていたとお伝えください」
「承知した!」
他人のおこぼれに預かるのはいささか不本意な気持ちになるものの、せっかくの心配りを無下にするわけにもいくまいと食事に手を合わせる。
「では、ありがたく頂戴する!」
「どうぞごゆっくり」