路地裏のキンモクセイ 第1章
「お風呂とお洋服、ありがとうございます」
「傷染みなかった?」
「少し」
シャワーを浴び、カカシの服を借りて着替えた彼女は、まだ濡れた髪のままカカシに頭を下げる。
ポタッと滴り落ちる滴が床に広がり小さな水たまりを作った。
「じゃ、こっち来て」
ソファーに座り読書をしていたカカシはパタンを本を閉じ、戸棚から救急箱を取り出して机の上に広げると、その中を物色しつつ、手招きして彼女を呼ぶ。
「はい、座って」
彼女をソファに座らせると、自分も向き合うように床に腰をおろした。
救急箱から消毒液を取り出して
「ちょっと染みるかもしれないけど、ま、我慢してね」
「はい」
少し力を入れたらポキンと折れてしまいそうな彼女の腕を優しく掴みながら消毒液を掛けると、彼女は僅かに眉をしかめる。
そして、痛みを紛らわすかのように、彼女は言葉を紡いだ。
「私、なまえと言います。今日初めてこの里へ来ました。岩に囲まれているのに、風も緑も⋯光もある。
⋯素敵なところですね」
それを聞いてカカシは少し複雑そうに、目だけで微笑みを返した。
そんな場所であんな目に遭ったのだ。
カカシに責任はないとは言え、素直に嬉しいと思うのはあまりにも単純で浅はかだ。
「⋯いいところ、なんだけどね」
「⋯ああいう人達はどこにでもいます」
カカシの気持ちを汲み取ってか、なまえは首を左右に振った。
そしてなまえは目を伏せ、一息ついてから
「でも」
視線をカカシに戻して言った。
「でも、──だから、あなたに逢えた」
そう言って笑った。
とても、柔らかい表情で。
「ありがとう、ございます」
「──⋯」
目が、逸らせない。
言葉が、消える。
それはなまえが初めて見せた、真っ直ぐな笑顔だった。
誰かに笑顔を向けられることに慣れてないわけじゃない。
笑いかけられたら、同じように笑みを返すことくらい簡単にできる。
それなのに
微笑みを返すことなんて頭の片隅にも浮かんでこなくて
ただ、彼女の笑顔を見ていたいと思った。
彼女が笑ったことが、どうしようもなく嬉しかった。
それでも、どうにか平常心を取り戻す。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
激しく動悸する胸と微かに震える手をどうにか押さえつけ、西日が射す窓から見える空が紅く染まったことに気付いてカカシは素早く治療を終えた。
床や机に散らかったものをゴミ箱と救急箱に収めながら、カカシはなまえに声をかける。
「夕飯、何か食べたいものある?」
「えっ⋯と⋯」
窓から外を見ていたなまえは、突然投げかけられた問いに言葉を詰まらせる。
そんななまえに、カカシは笑いを零しながら言った。
「外、行ってみよーか?」
「──⋯」
カカシの言葉になまえはどこか心許ない顔をしながらも、コクンと頷いた。