遥かなる群青 第1章
「はぁ⋯」
もう何度目になるかわからないため息を溢して、ほとんど量の減っていないコーヒーが入ったカップをソーサーに置く。
運ばれてきた直後はまだ湯気を立てて温かかったコーヒーはすっかり冷めきっている。
時間とともに熱が引いていくのはコーヒーも人間関係も同じだなんて考えが頭を過ぎって、諦めにも似たため息が再び無意識に溢れた。
このままため息を吐き続けたら、いつか心に満ちた雑念は消えてくれるだろうか。
馬鹿馬鹿しい考えを振り払うように立ち上がると、半分も減っていないコーヒーカップを申し訳ない気持ちとともに返却口へ差し出した。
「ありがとうございましたー」
注文したものを残した客にすらもそんな言葉をかけてくれる店員さんの声を背にカフェを出ると、宛もなく街を歩く。
日が傾きかけた通りを手を繋いで歩く恋人たちを横目で眺めながら、どうして自分はああなれないんだろうと薄暗い気持ちに襲われる。
始めはたしかに、想い合っていたはずなのに。
付き合って2年になる恋人に浮気をされるのはこれが初めてじゃない。
コソコソと浮気相手と連絡を取り合っていた頃はまだ良くて、最近じゃもう開き直って一緒に暮らしている部屋に浮気相手の私物を放置したまま隠しもしない。
相手は一夜限りなことも多かったけれど、同じ相手と数回繰り返していたこともあった。
最初こそ泣いたり咎めたりしていたけれど、いつしか浮気の証拠を見つけたくらいでは動じないほど感覚が麻痺するようになってしまった。
それでも。
仕事が終わって帰宅した彼の愚痴に耳を傾けながら食事を作ったところで「疲れてるから一人になりたい」と言われて家を出たものの、途中で携帯を忘れてきたことに気付いて部屋に戻った私の目に飛び込んできたのは、裸で抱き合う彼と見知らぬ女性だった。
『なんだよ、タイミング悪ィな』
作り置きした料理は食い散らかされていて、私に向かって悪びれる様子もなく平然とそう言ってのけた彼に久しぶりにショックを受けて、かろうじて携帯を掴むと逃げるようにして部屋を飛び出した。
浮気の証拠はずいぶんと見てきたけれど、行為を見てしまったのは初めてだったから。
動揺する胸を押さえて走って逃げて、息が切れて立ち止まったところにあったカフェで休むことにしたけど、深い色をしたコーヒーに誘われるように暗い気持ちが襲ってきた。
コーヒーは悪くないのに。
暗い気持ちのまま家に帰る気にもなれなくて、目的もなく街をフラフラと彷徨う。
こういうとき、泣いたら少しは楽になるのだろうか。
何度も繰り返し刺され続けて麻痺してしまった寂しさや怒りや悲しみは少しのことでは動じなくて、それは自分を守るための手段だったはずなのに、今はただ、行き場を失った感情が苦しい。
ードンッ
「っ」
フラフラ歩いていたからだろう、正面からやってきた恰幅のいい年配の男性とすれ違いざまに身体がぶつかって、思わず足がもつれて地面に倒れ込んだ。
男性はぶつかったことを気に留めない様子で、振り返ることもなく歩いていく。
地面に伏している自分がとても惨めで、剥き出しのコンクリートに強かに打ち付けた膝小僧がじんわりと痛くて、目の奥が熱くなった。